FOREVER と言わないで
キブツ、エル・ロームでは、隼介がこのキブツに入った1984年から本格的にサービスを開始した、キブツとしては非常に珍しいビジネスを行っている。
それは、海外から輸入された映画やテレビ番組などへの字幕スーパーを入れる仕事や、テレビの番組内容の翻訳を手がける仕事で、そのための専用スタジオもキブツ内に持っている。
この仕事の責任者は、ラミという白人の男で、口数は多くないのだが、人柄を示すように大変澄んだ優しい目をした男で、彼の話している英語の訛りを聞くと、スコットランドかオーストラリアのどちらかの国からか永住してきたんだろう― と、隼介は何度かラミが人と話しているのを聞いて思ったことがあるが、メンバーの中では非常に接し易い人物といえた。
2月に入って最初のシャバット・ディナーの夜、隼介はそのラミに、夕食の後片付けをしている最中に声をかけられた。
「シュン。君達が週末の息抜きを始める前に、ちょっと君に来週から手伝ってもらいた仕事があるもんで、よかったらその話をさせてもらいたいんだが、今からじゃダメかな?せっかくこれから盛り上がろうとしているのに、水を差すようで申し訳ないが・・・」
ラミは、隼介達ボランティアがワインをいつものようにかき集めて、飲み会を始めようとするのを横目で眺めながら、本当に申し訳なさそうな顔をして隼介に声をかけてきた。
「あァ、別にかまわないよ。こんなものは毎度のことだから気にしないで。・・・で、どんなことだい?」
隼介はそう言うと、自分から少し離れたテーブルに行き、ラミにイスを引いてやっておいてから自分も腰をかけた。
「シュン。このキブツには、海外から入ってくる映画やテレビ番組の、字幕を入れたり翻訳をしたりするビジネスがあるってことは知ってるかい?今俺はその責任者をしてるんだが・・・」
「あァ、知ってるとも。普通だったらテル・アビブかエルサレムのような大きな街でしていることを、よくこんな辺鄙な片田舎にまで持ち込んでできるもんだと、俺達はいつも感心してるからね。・・・だけどあれかい、テル・アビブやエルサレムのような国際都市には、そんなにビジネス・センスのない連中が溢れかえってるのかい?」
そんな露骨なジョークが言えるのもラミだからだが、ラミはそれよりも、日本人の隼介がそんなジョークを言ったことに驚いている顔をした。
「ハハハ・・・、日本人にしては英語でキツイことを言うなァ。だけどここで始めたのには、それなりの理由もあるんだ。確かに俺達もここでこのビジネスを立ち上げる時には、多少先行き不安なこともあったけどね。だけど、ここにはそれが出来るスタッフが揃っているんだ。海外からの永住者も多いしね。それと、作品がイスラエル国内を流通するためには、ここでしている仕事を通過しないと始まらないんだから、だから場所はそれほど重要じゃないんだよ。・・・まァ、そんな説明は今更いいんだけど。実はね、日本人の君にどうしても頼みたいことというのは、今度俺達は、日本の映画をここで初めて扱うことにしたんだ。その仕事に君の助けがどうしても必要なんだ」
ラミの説明だと、2年前の1983年にカンヌ映画祭でグランプリを受賞している、今村昌平監督作品『楢山節考』に、ヘブライ語の字幕を入れる仕事を受けているのだという。
『楢山節考』は、隼介がオーストラリアにいた頃、現地のメディアでも取り上げられた作品なので隼介も良く知っていた。それほど有名で世界中に配給された作品なので、英語に翻訳された台本まではあるようなのだが、ただ、ラミ達スタッフが隼介を必要とするのは、英語に翻訳された台本の台詞と、俳優がスクリーン上で喋る日本語の台詞をつき合わせながらヘブライ語の字幕を入れていく作業をする上で、日本語のわかる人間がいれば、台詞の「割り当て」がスムーズに進むからだった。
「日本の作品は、是非一度扱ってみたかったんだ。今回それをするには、良いタイミングで君がいる。2日もあれば十分だと思うが、どうだろう、力を貸して貰えるかい?」
「あァ、勿論だとも。俺も、ここまで来た足跡が、そんな形で残せるんだったら、喜んで協力させてもらうよ」
隼介がそう言って手を差し出すと、ラミは隼介の手を確り握り返してから、本当に嬉しそうに隼介を抱きしめた。
勿論隼介の方も、日本の映画を扱うことにしたのは、おそらく自分がここに居たことが影響しているだろう― と思うと、少し得意な気分だった。
翌朝、隼介は、いつもよりもゆっくりダイニングに顔を出すと、時間をかけて朝食をとり、ラミと一緒に仕事場に入った。
スタジオが入る建物は、メイン・ビルの南側にあるこのキブツで二番目に大きな建物で、1階は事務所や倉庫になっているようだったが、2階には見慣れない機械類が置いてある部屋やスタジオが四つほど並んでいた。
隼介は、映画フィルムのセットされた機械と、画像を映し出すモニターの前に座らされると、ラミから一通りの説明を受け台本に目を通した。
「シュン、気楽にやってくれ。登場人物をまず掴まえて、その人間が言っているセリフの出だしとその最後を、この英語の台本と照らし合わせて教えてくれればいいんだ。それに合わせて俺達がヘブライ語に訳した字幕を入れていく。君にとってはそれほど難しい仕事じゃないはずだ」
「あァ、わかったよ。多分大丈夫だと思う。・・・それよりもむしろ、久々に日本語を聞けて、そっちの方が俺には嬉しいね。何せ、日本語の本を一冊も持ってこなかったせいで、たまに日本語で独り言を言うようになってしまっていてね。自分でもそれが少し気味悪くなってきたところだ」
隼介は笑ってそう言ったが、それは事実で、海外で日本語を目や耳から取り込まない日々を長く送っていると、2、3ヶ月もすればニコチン中毒と同じで、日本語に対する禁断症状のようなものが現れてくる。そんな時は独り言をぶつくさ言ったりするだけで落ち着けるのだ。勿論5年も10年も海外にいて、思考回路が完全に他の言語に切り替わればそんなことも軽減されるらしいが、そうなると今度は日本語が記憶から失われていく。
「そうか、じゃァ精々楽しみながらやってくれ。それと、俺達には日本語は全くわからないんだから、君のペースで進めてくれればいいからね」
「OK、わかったよ。こんな仕事をするチャンスなんて、一生に一度だろうし、おまけに作品も有名なものだ。・・・そうだ、ラミ。最後の方に、スペシャル・サンクスで名前を入れるのを、くれぐれも忘れないでくれよ」
隼介はラミに向かってウインクをしたが、ラミは笑うばかりで「OK」とも何とも答えなかった。
作業は、それから3日も続いた。
隼介にとってはそれほど難しい仕事ではなかったが、舞台が昔の非常に貧しかった頃の日本の山村で、外国人には殆んど知られていない昔の日本の封建的な風習や身分制度。それに、彼らには理解できないような場面があると、「これは、何?」「あれは、どうして?」と、いちいち説明を求められ、それに隼介がまたバカ正直に付き合ったものだから、結局この仕事を上げるのに手間取ったのだった。
ラミの仕事の手伝いが火曜日に終わると、「今週の残りの2日間は、お礼に隼介の希望を何でも聞く。別に休んでも差し支えない」と、ボランティアの仕事を振り分けているギラが上機嫌で言ってくれたおかげで、隼介はあえてキーウィーの仕事の手伝いを一方的に申し出たのだった。
ただ、どちらかというとキーウィーの仕事は人の手を必要とするほど忙しいものではなく、こっちから勝手に押しかければあのマイペースな男は嫌な顔をするのはわかっていた。しかし、それでも隼介は、このキブツにいる内に一度位は仕事に付き合って話をしてみたいと思っていたので、このチャンスを逃す手はないと考えた。
翌朝隼介が少し遅れてワーク・ショップに顔を出すと、何も聞いてなかった筈のキーウィーは想像していた通りの顔をした後、不機嫌そうな顔で「何の用だ」と隼介に尋ねた。
「俺の今週のノルマは上げたんでね、今日と明日、俺はここで遊んでいても構わないことになったんだ」と、隼介はわざと嬉しそうに答えたが、相変らず愛想のないこの男は呆れた顔をしただけでそれ以上口を開こうとはしなかった。
隼介は、そのまま黙り込んで仕事を始めたキーウィーを自分の方からも無視すると、入り口の側の北向きの窓際に行き椅子に腰を下ろした。
その窓からは、50メータほど向こうに『子供の家』が見え、窓辺で子供をあやすファニーの姿もあった。
何をどういう風に話せばいいんだろうな・・・?― ブクァタ村に行った夜から、隼介は、イスラエルに長居をしないと決めていたが、それをいつ、どういう風に切り出せばいいのか思いあぐんでいた。
「ほら、コーヒー」
振り返ると、コーヒーを入れたカップをふたつ持ち、キーウィーが後ろに来て立っていた。
「お前どうするんだ、これから?確か3ヶ月間だって言ってたよな」
右手に持ったコーヒーカップを隼介に差し出しながら、キーウィーはぶっきら棒に隼介にそう尋ねた。
「あァ、そうだ。来月になったらヨーロッパに帰ろうと思う。俺にはあんたのように、ここに長居するだけの勇気はないってわかったからな」
「そうか、それは利口な選択だな・・・」
それから二人は暫くの間、窓際に並んで黙って『子供の家』を眺めていた。窓辺は暖かいのか、ファニーに抱かれた子は眠りに落ちたようだった。
「ところで、お前の方はどうするつもりだ、キーウィー?このまま一生ここで暮らすつもりか?・・・だとしたら、多少はユダヤ人に同調することも考えないとな。ミリーのこともあるし・・・」
キーウィーは「フン」と鼻で笑うと、コーヒーカップを窓のさんに置たまま作業台のところに行き、振り返るようにして飛び乗った。
「ここに居れば貯金通帳どころか財布も必要ないだろ?そこのショップでビールを買うための小銭入れでもあれば十分やっていける。こんな気楽で安定した生活が、もしこれからどこかに行ったとしてすぐ簡単に手に入ると思うか?」
「 」
「・・・そうだな、今俺がもし仮にニュージーランドに帰ったとしても、待っているのは失業者ってレッテルだけだ。それだったら、今の俺を皆が必要としてくれるここはましだってことだ。・・・まァ、確かにそれはここにいるイギリス人のボランティア連中だって似たようなもんだがな」
確かにキブツは、欧米の若い失業者にとって格好の避難場所と言ってよかった。
「シュン、たった一度の人生をエンジョイして生きてる今のお前だって、すぐにどこかに定住するつもりなんてないだろう?俺達にはそれだけの時間的余裕が十分あるからそうしてるだけで、そんなわざわざユダヤ人に同調して生きるほど切羽詰った立場じゃないね。・・・そんなことより、お前あの子はどうするつもりだ?」
キーウィーは窓の外を見ながらアゴを杓った。
「・・・さァな。俺は宗教には縁のない人間だし、世界を歩き始めてからは、自分の生まれた国にだって執着しなくなった。そんな人間が、全く逆の立場の人間に恋してしまったんだぞ・・・。まァ、たった3ヶ月でユダヤ教という化け物みたいな宗教に勝って彼女を奪おうと思うこと自体、本当は無茶で無謀な話だろうけどな・・・」
「シュン、知ってるか?俺の好きなボブ・ディランってアメリカの歌手は、1970年代後半にボーン・アゲイン・クリスチャンというキリスト教の一派の洗礼を受けユダヤ教から改宗した。今じゃあまりにも有名な、アメリカを代表する歌手であり詩人であり作曲家だ。・・・まァ、確かに海外にいるユダヤ人とここにいるユダヤ人では、置かれた立場が違うから比較は出来ないかもしれない。だがな、イスラエルの若者だって、ずっと今のままでいいなんて思っちゃいないはずだ。これまでの長い歴史の中では、確かに国や民族を守ることを大前提にユダヤという名前や宗教を掲げて戦ってきたかもしれないが、いつかはその呪縛から解き放たれる時が来ることをきっと願っているはずだ。人間誰だって、束縛されることを良し― となんて思っちゃいないからな。そうだろ?」
珍しく熱弁をふるうキーウィーが、妙に頼もしげに見え、隼介はただ頷くばかりだった。
「・・・シュンもここを出るなら、一度ゆっくり彼女が何を考えているか、話しを聞いてみるべきだな。ユダヤの全てが閉ざされたものなんて思うのは間違いだ・・・。勿論ミリーだって、これから自分がどんな人生を選択するか、ちゃんと考えているって言ってたしな・・・」
「ボブ・ディランが元々ユダヤ人で改宗してたなんて話、ぜんぜん知らなかったな・・・。この前、ハイファの新聞社に勤めているミリアムという女性が、両親に会いにここに来てただろ。こんな場所に滞在する日本人の俺が珍しかったのか、インタビューを申し込まれてね。その時彼女も言ってたな、いつかはあなたのように、レッテルのない、何の束縛も受けない生き方をしてみたい― ってね。」
隼介はそこで言葉を切ると、キーウィーのいる作業台の側に行き、組み立て途中のキャビネットの材料に手を掛けた。キーウィーは「手伝え」とも何も言わなかったが、隼介がすることを止めようとはしなかった。
明後日の金曜日にでもどこかに誘ってみるか・・・― 隼介は、キーウィーと話したことで、少しだけ気持が楽になっていた。
ところが、残りの2月の週末をファニーとずっと一緒に過ごそうと考えていた隼介だったが、その週の週末を境にして隼介の周りは落ち着かない慌しい日々に変わり、ファニーとまともに会うこともできない毎日が続くようになった。
週末の木曜日の夜には、カナダ人のジェミーとカーンが、果物の選別工場の近くで会ったという国連軍のカナダ人兵士二人をボランティア・ハウスに呼んでしまい、よせばいいのにスティーブンやジャネットら同世代の連中も加わってパーティーを開いてしまったものだから、これには何も知らされていなかった隼介やポールは慌てふためいた。
残念ながらエル・ロームで暮らすメンバーの中には、兵力引き離し名目で駐屯している国連軍をあまり良くみていない人間がけっこういた。
特にそれは予備役中の男性メンバーの中に多く、第3次、第4次中東戦争と修羅場を何度も潜り抜けて来た彼らは、シリアに対する態度も強硬的で、おまけに絶えることなく続くテロ行為にシリアが加担しているとなれば、シリアに対する反発心も一層強かった。そのため「仲裁など不必要」という気持から、間に割って入っている国連という組織を煙たい存在でしか見ていなかった。
そんな雰囲気の場所に、よりにもよって国連軍兵士を入れてしまったのだから、下手をすればメンバーとの間に亀裂を生みかねない問題に発展しかねなかった。
その夜は、年長格の隼介とポールはマイクに呼ばれてリタの誕生パーティーに行っていたし、ボランティアのリーダー格のマイケルは、3ヶ月以上働いた者にキブツがお金を出す国内旅行にトレーシーと出かけて留守だった。
夜中に部屋に帰って、酔っ払って騒ぐ若いボランティアとカナダ兵の醜態を目にした隼介とポールは、翌朝全員を嗜めた上で週末は全員が行動を自重したが、そのおかげでこの週末はファニーに会うことすら出来なかったのだった。
そして、その翌週からは、今度はユダヤ教の祭りプーリム祭の準備が始まり、隼介は今度はその慌しさに巻き込まれてファニーと会う時間を削られていった。
この祭りは、昔王妃エステルがペルシャ人からユダヤ人を救ったことを記念する祭りで、太陰暦を使うイスラエルでは毎年2月から3月にかけてのいずれかの日に行われるそうだが、この祭りは別名仮装行列祭とも呼ばれ、祭り当日には名前の通り仮装した人達でイスラエル中が大変な賑わいを見せるということだった。
隼介は、自分がイスラエルに来た理由が単に時間潰しだったせいで、ユダヤ教の行事や戒律などに関しては全く無知に等しく、このプーリム祭があること自体直前まで全く知らなかった。しかし、祭りの準備が始まると、メンバー達がやけにそわそわし始めたので、週始めにファニーに30分ほど会った時に気になって理由を尋ねてみた。すると、「この祭りの日に限っては、『悩みが喜びに変わった』ということを最大限表現するという意味で、飲んだり騒いだりして羽目をはずすことが公に許されるの。だから皆楽しみにしてるのよ」と、彼女自身も楽しみにしているのだろう嬉しそうに教えてくれた。ユダヤ教徒の彼らは、普段どちらかというと教えに従順な上に場所柄お酒を控えている人が多いのだが、どうもそれが公に破れるとあって期待は隼介達外国人の想像以上に大きいようだった。
結局プーリム祭までの間、隼介がファニーと話せたのはこの時だけで、ファニーの方は自分用と子供達に着せるコスチューム作りに忙殺されて会うこともできない状態が祭りの当日まで続いた。
そして、準備期間が8日ほどあって開かれたプーリム祭の夜、隼介はやっとファニーを捉まえてまともに話すことができたが、それでも華やいだ雰囲気の中で話せることは知れていた。
後半は慌しい日々になりあっという間に2月も終わりを迎えると、ゴラン高原一帯の温度も少しづつだが上がり始め、春の訪れを感じさせるような天気が続くようになっていた。
この地方に冬場3ヶ月の間に降る雨や、ヘルモン山に降り積もる雪の量が、イスラエルの1年分の水を左右すると言われるが、そのイスラエル人にとって重要な雨季も過ぎようとしていた。
隼介は、そんな春の訪れが近いことを肌で感じながら、すでにはっきりと自分の気持にけじめをつけていた。
それは、当初の予定を曲げることなく、もうすぐイスラエルを離れてヨーロッパに帰ることを意味していた。
ブクァタ村からの帰り道、闇に浮かぶエル・ロームを外から見て、ここは自分の生きる場所ではない― とはっきりわかった時から、その気持は固まっていったといってもよかった。
隼介は、明日から3月という日、残り1週間でキブツを出る腹を決め、ポール達仲間に告げると、その夜にはボランティア・リーダーのケニーにも言って了解を得た。
そして、その翌日の金曜日の朝、隼介は少し早めに起き出して、『子供の家』を訪ねた。
ファニーは当番で前日から『子供の家』に泊まり込んでいて、その時間だともう起きて子供達と一緒に朝食をとっているはずだった。
「おやよう、誰かいますか?」
隼介が玄関でそう呼びかけると、すぐに玄関が開いてファニーが嬉しそうに顔を出した。
隼介は、「もう皆起きてる?」と尋ねると、いつもしてるように頬に軽く挨拶のキスをした。
「どうしたの、こんな早い時間に?今日は週末で寝坊ができる日でしょ。・・・それともこれからどこかにお出かけ?」
ファニーは、甘えるようにそう言って隼介の胸に顔を埋めたが、ちょうどその時奥で急に子供が泣き始めてしまい、「ちょっと待ってて」と言って、慌てて様子を窺いに奥の部屋に消えた。
隼介は、昼間だったらそのまま子供達の様子を伺いに勝手に上がり込むのだが、朝早いこともあり、玄関のドアを入ったところで立って待った。
奥の方では、暫くの間ファニーが誰かをあやす声が聞こえていたが、その内に、目に涙をいっぱい溜めたナオミという3歳の女の子を抱いて奥の部屋から顔を出したファニーは、「入ってもらいたいけど、まだ子供達の食事が始まったばかりで手が離せそうもないの。何か用があるなら、悪いけど後でもう一度来て」と、残念そうな顔をして言った。
隼介は、「いや、特別な用はないけど、来週末にキブツを出ることにしたんだ。それを伝えておこうと思ってね・・・」と言って、ファニーの顔を伏目がちに見た。
「来週末に・・・」
突然のことにファニーの顔が一瞬強張り、それからゆっくり視線を隼介から逸らすと、力なく俯いた。
「ごめん、忙しい時に驚かせてしまって・・・。わかったよ、また後で寄るよ」
隼介は、俯いたまま黙り込んでしまったファニーにそう告げると、ドアノブに手を掛け明けようとしたが、後ろからナオミに「シュン」と呼ばれて、もう一度後ろを振り返った。
ナオミの嬉しそうに笑った顔の横で、ファニーの悲しそうな目が隼介を見つめていた。
「ファニー・・・。後で、ゆっくり話そう・・・」
隼介は、ファニーにそう言ってやるのが精一杯だったが、気を取り直したようにナオミに笑いかけると、「いい子だから、言うことを聞いてきちんとご飯を食べるんだよ。いいね。・・・じゃァ、バイバイ」と言って、小さく手を振っってから外に出た。
いづれ別れをはっきりと伝えなければならない日が来ることは、分かりきっていたはずだった。
しかし、ファニーの自分に向けた眼差しが頭に残り、外に出てもそれが隼介の気持を締め付けて苦しかった。
隼介は、重い気持を引きずりながら、メイン・ビルの裏手にある、キーウィーのワークショップに向かった。
『子供の家』に向かう途中に、キーウィーが朝早くからワークショップに入るのを見ていて、その日が休日にも関わらず仕事をしているのは知っていた。メンバーになってからキーウィーの仕事はもっぱらキブツの営繕係らしかったが、言い換えれば、安息日に動けないユダヤ人にとって、こういう人間がメンバーとしていてくれるのは好都合といえた。
隼介は、声も掛けないで遠慮なく入り口のドアを開けると、奥の方でなにやらごそごそしているキーウィーを見つけ「おやよう」と声をかけた。
「休みの日だというのに、何を朝早くから頑張ってるんだ?夕べも遅くまでここの電気が点いていたようだけど、パンツの数もまともにない男が、自分のキャビネットでも作ってるのか・・・?」
隼介がそう言ってちゃかすと、キーウィーはちらっと隼介を見て、「フン」と鼻で笑って少し白い歯を見せたが、それだけでまともな返事は返ってこなかった。
「キーウィー。来週末にここを出ることにしたよ。きっぱり気持を切り替えて、ヨーロッパに帰ってまた稼ぎ直すことにした」
「そうか。・・・で、あれから彼女とは話したのか?」
手も休めず、顔も隼介に向けず聞かれると、隼介もあまり良い気はしなかった。
「・・・いや、あれからずっとバタバタしてたから何もしていない」
「 」
「どうだ、よかったらこれから少し手伝おうか?どうせ安請け合いでもして、無理してやってるんだろ?」
隼介は、それから小一時間ほどキーウィーの仕事を手伝ったが、その仕事はキーウィーの部屋の隣に住む古株の夫婦に頼まれたキャビネットの修理だった。
「明日は安息日だから、今日中に取り付ける約束になってる」と言って、キーウィーは組み立て終わると台車にキャビネットを乗せて運んで行ったが、隼介の方は何も食べずに朝から動いたものですっかりお腹が空いてしまい、朝食を摂りにダイニングに上がって行った。
ダイニングに入ると、すでに8時を回っていたが、やはり週末ということもあり人はまばらだった。
隼介はバッフェに行き、コーヒーだけカップに注ぐとそれをトレーに乗せて持ち、『子供の家』が見える西側の窓辺の席に行って座った。
そして、暫くコーヒーカップを手に持ったままじっと子供の家を見ていたが、その内表情もさえなくなり大きな溜息をつくと、手に持ったコーヒーカップを飲みもせずにトレーの上に返した。
「あらら、シュン。何をそんなに大きな溜息ついてるのかしら?人がさっきから待ってたのに、気づいてもくれないし・・・」
「 」
いつの間にかファニーが来て、後ろに立っていた。
「さっきここに来たらいないから、ボランティア・ハウスを訪ねようかと思ったんだけど、ちょうどオリットがいたから話していたら、あなたが上がってきたんでよかったわ」
見ると、東側のテーブルにファニーと同じ兵役中のオリットという女の子がいて、隼介と目が合うと右手を小さく上げて挨拶をしてよこした。
「キーウィーが今日も一人で仕事をしててね、面白そうな作業だったので手伝っていたんだ。・・・それより、子供達の世話は終わったのか?」
「えェ、無事お役ごめんになったわ。これであさっての日曜日までは休めるの」
1時間前に『子供の家』で見たファニーの眼差しが脳裏に焼付いていて、隼介はファニーの顔を真っ直ぐに見ることができなかった。
「ところでシュン。明日あなた、何か予定でもあるの?もし何もないようだったら、ちょっと付き合ってもらいたいところがあるんだけどな」
「あァ、何も予定はないよ。だけど、またどこかに行くのか?・・・君とだったら俺はどこにでも行くつもりけど、前回のことがあるから、シリアの近くだけは遠慮しときたいね」
二人でシリアを見に行ったことが、今は大切な想い出になったな― と、隼介は一人思った。
「フフフ・・・、勿論今回はあんな味気ないところじゃないわ。そうねェ、ちょっと遠い気もするけど、今回はヘルモン山の近くある国立公園に行こうと思うの。バニヤスと言ってね、大きな滝もあるし、近くには有名な十字軍の要塞の跡もあるんだ」
「要塞の跡だって、なんだいそれは?・・・滝の方はまだわかるけど、要塞なんてもん、そんなものが昔この辺りにはあったのか?」
隼介は、驚いた顔をして、やっとまともにファニーの顔を見た。
「何を言ってるのシュン。大学まで出てるあなたにしては、少し勉強不足じゃないですか?あなただって知ってるでしょ、十字軍って名前くらい。ゴラン高原北部にはね、あの頃の遺跡があるの。それにバニヤスやダンという国立公園近辺には、紀元前の遺跡だってあるのよ。明日は良いチャンスだから、私に付き合ってそれを見学に行くの。いい、約束よ。寝坊しないでね」
すっかり機嫌の良い時の顔に戻ったファニーは、「じゃァ、私これから帰って寝るから」と言って、用が済むとさっさと引き上げていった。
翌朝、隼介は、ファニーとダイニングで7時半に待ち合わせると、一緒に朝食を済ませた後、簡単なサンドイッチを二人で作り、それを隼介の持つリュックに詰め込んで出かけた。
通常キブツの外に出かける場合、少人数で近場だと届け出も必要がないのだが、まとまった人数で遠くに行く場合などは、キブツへの届出をした上で、キブツ側からはライフル銃を持ったメンバーの男性がセキュリティーとして同行することになっていた。ファニーは、自分が隼介と行こうとしている場所が、レバノンとの国境のすぐ側である上に、ヘルモン山の麓のドルーズ人部落の近くということもあり、届出をどうしようか迷っているようだったが、「もし二人だけで行くのはダメだと言われたら、最後のチャンスを逃すことになるから」と言って、結局何も届出は出さなかった。
二人は、人に見られることもなくエル・ロームの敷地を出ると、幹線道路を北に向かって歩き始めた。
この幹線道路は、隼介達が1月に行ったブクァタ村を過ぎると、そのさらに4キロ先にある、やはりドルーズ人の集落であるメッサダ村で西に折れて谷に沿って高原を下って行き、キルヤット・シャモナーという、フーラ盆地北部では一番大きな町で国道90号線に繋がる。
「バニヤス国立公園の中心でもある滝は、メッサダ村から幹線道路を10キロ程下ったところにあり、十字軍が残したナムラッド要塞跡は、バニヤスの滝の手前2キロのところで右に折れ、ヘルモン山の麓にあるゴラン高原で最も大きなドルーズ派の集落、マジダル・シャムス村に上がる道筋にある」と、ファニーは手に持った地図でこれから二人が向かう場所の位置関係を簡単に説明してくれたが、二人が歩いている場所とフーラ盆地の標高差を考えても、ヘルモン山の麓に見える曲がりくねった道を遠くから眺めても、その行程がピクニック並みに易しいものではないことは隼介にもすぐわかった。
「どうせ今日は安息日だから、ヒッチハイクをしても乗せてくれるような車がくる可能性は低いでしょうね。・・・で、どうなのシュン。ブクァタ村まで歩いてみて。先はまだまだ長いけど、あなた歩いて行くだけの元気はありそう?」
隼介よりも8歳若く、1年前には新兵として軍で鍛えられた実績があるせいか、ファニーはブクァタ村まで来ると余裕の表情で隼介にそう尋ねた。
「バカを言ってもらっては困るな。他所の国でヒッチハイクをする時には、重いバックパックを担いで1時間やそこら手をかざしたままで歩くんだ。それくらいしないと簡単には止まってくれないからね。それに比べればこんなこと楽なもんさ」
隼介は、涼しい顔でそう強がったってみせたが、ファニーが意味ありげな顔で笑っているのに気づくと、何を思ったか急に立ち止まり、「だけど、どちらかといえば俺は、帰りの道が上り坂だということの方が心配だね。ヒッチハイクは、上り坂が長く続くようなところでは無理はしないもんで、そんな時は車が来るまで立って待つことにしてるんだ・・・」と、わざとらしく付け加えた。
「あら、じゃァ、もし車が全くこなかったらどうするつもり?今日はバスも動いてないし、野宿覚悟で待ち続けるとでも言いたいの」
「わかってないなァ。その時はね、タクシーを呼ぶんじゃないか」
ファニーはそれを聞いて、「じゃァ、電話でも担いでいかないとね」と言ってどっと笑い転げてしまったが、それで気持がほぐれたのかそれから先は機嫌が一段と良くなり、隼介の腕に纏わりついて歩くようになった。
エル・ロームからブクァタ村の北の外れまで、隼介達は30分かけて歩いたが、結局この間、一台も車が通り過ぎることはなかった。
二人は、さすがにヒッチハイクに期待が持てないことに踏ん切りがついたのか、ブクァタ村を通り過ぎた辺りから、後ろをちょくちょく振り返ることもしなくなったが、ブクァタ村を過ぎて、ちょうどメッサダ村との中間にある大きなS字カーブを抜けようとした時、南から近づいてくるエンジン音にファニーの方が先に気がついた。
「シュン。何か来るよ!」
隼介は、その声につられてすぐに振り返ると、白いピックアップ・トラックがちょうどS字カーブに凄い勢いで突っ込んできたところだった。
「しめた」と思った隼介は、慌てて車に向かって手をかざして待ったが、トラックの勢いは一向に緩むような気配を見せなかった。チェ、ダメかな?― 大体こういうパターンだと止まってくれる車は少ない。。
しかし、もう無理だな― と二人が思って顔を見合わせた時、そのトラックは急ブレーキを踏んで減速し、隼介達を少し通り過ぎたところで止まった。
隼介とファニーは、思わずもう一度顔を見合わせて笑ったが、すぐにトラックはバックをしてさがって来ると、隼介達の横に並んで止まった。
「乗ってくか?」
たぶんそう言ったのだと思う。ドルーズ人らしい運転士は窓を開けて顔を出すと、ヘブライ語でそう言い、ぶっきら棒にジェスチャーで荷台を指し示した。
隼介は、英語で「いいのか?」と一応尋ねたが、運転士は隼介の顔を見て、「見慣れない顔」とでも思ったのか意外な顔をした後、片言の英語で「マジダル・シャムスに行く」とだけ答えた。
マジダル・シャムス村は、メッサダ村からさらに4キロばかり北に上がったもっと標高の高い場所にあり、この村を経由してもバニヤスの滝やナムラッド要塞跡に下りて行くことはできるが、だたこのコースで行くと7キロばかり大回りをすることになる。
「ファニー、どうしようか?マジダル・シャムスだって。乗せてもらうかい?俺としては面白そうだから、マジダル・シャムス村も見ておきたいんだけどね。・・・それに、ナムラッド要塞跡は、確かマジダル・シャムスから下りる道沿いにあったよな」
隼介は、今日に限っては自分に主導権はない― と思っているので、一応ファニーの了解を得るためにそう尋ねたが、すでに乗り込む体制で両手を荷台の枠に掛けていた。
「シュンがそうしたいと言うんだったら構わないけど、ただ・・・」
ファニーは、途中まで何か言いかけたが、もう隼介が飛び乗ろうとしているのを見て、諦めた顔をして言葉を切った。
トラックは、隼介達を乗せてスタートすると、あっという間にメッサダ村を走り抜け、すぐにマジダル・シャムス村に上がる道に入っていった。
この辺りまで来るとさらに標高が上がって視界が開けるので、南に広がるフラー盆地を遠くまで見渡すことができるようになる。また直線距離で20キロほど西に見える、この辺り一帯では一番大きな町キルヤット・シャモナーの北2キロのところには、1917年にユダヤ人がアラブ人から土地を買って開拓したテル・ハイが見える。そして、さらにその3キロ北には、レバノンとの国境間近にある避暑地のメトゥラーの一部もこの近くからだと望むことができる。
「シュン、十字軍のナムラッド要塞は、ちょうどそこの丘の向こうになるの。メッサダから真っ直ぐ下っていけばすぐに見ることができたわ」
ファニーが指差す方向には丘があって、すでに西の方向はこの丘が遮る形になっていて見えないのが残念だった。
「私達の3キロほど前方に見えるあの大きな集落がマジダル・シャムス村。・・・で、あの村から曲がりくねった道がナムラッド要塞まで下りていってるでしょ。後で私達は、あの道を歩かないとならないの。村からだと7キロ程の道のりね」
隼介は、トラックの屋根の後ろに就いているバーを持って立ち上がると、ぐるりと辺りを見回した。南側の視界が広がって遠くが見渡せるようになったのと、ヘルモン山がすぐ間近になったことで興奮を覚えずにはいられなかった。
「ファニー。さっきトラックに乗り込む前に君は何か言いたげだったけど、マジダル・シャムス村には、何か特別な思いでもあるのか?」
隼介は、「マジダル・シャムス村に行く」と決めた時、ファニーの顔が少しだけ曇ったことに気づいていた。
「・・・実はね、シュン。マジダル・シャムス村のすぐ側には、『叫びの谷』と言われる場所があるの。・・・知ってるでしょ、この近辺に住むシリア人の苦難の歴史は。ゴラン高原をイスラエルが占領してしまったことで、彼らは、親兄弟、親戚、知人、皆自分の意思とは関係なく突然シリア側とイスラエル側に引き裂かれてしまったわ・・・。その『叫びの谷』と呼ばれる場所ではね、シリア側とこちら側で、叫んだり、拡声器を使って呼びかけたりして、家族や親戚などの安否を確認し合ってるの。・・・そんな場所の近くの村に、イスラエル人の私が行きたくないのもわかるでしょ」
地図で見ると、マジダル・シャムス村のすぐ西側に谷がある。イスラエル側の非武装地帯のフェンスはライン・アルファー。シリア側のフェンスはライン・ブラボーと呼ばれているが、引き裂かれたシリア人達は、この非武装地帯のフェンス越しに、家族、知人などの安否を確認するらしかった。
隼介は、そういう場所がある― という話は以前聞いたことはあるが、それがマジダル・シャムス村のすぐ側だとは知らなかった。
「そうだったのか。じゃァ、トラックが村に着いたら、なるべく早く出た方がいいかもな?・・・しまったな、そんなことだったらメッサダから真っ直ぐ下におりればよかった」
隼介は、観光者面に返って浮かれている自分が少し恥ずかしかった。
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